Back to top

HISTORY

これまでのあゆみ

取締役相談役
中井 恵美子

創業の志を胸に、地域と共に歩んだ日豊運輸の道

地域に根差し、未来を拓く創業の精神

私は創業家の一員として、現在取締役を務めています。創業時の当事者ではありませんが、私が創業者である義父、2代である義母から伝え聞いたこと、そして3代目である夫の働く姿をみてきたことをお伝えいたします。

「日豊運輸」の名には、先代たちの熱い想いが込められています。昭和40年1月、創業者である義父、中井昇が日本通運の委託店として事業を始めました。その始まりは、地域の大きな転換点でした。かつて夕鉄(夕張鉄道)の駅前にあった日通で義父は所長を務めていました。しかし、鉄道の廃線と共に日通も廃止されることになり、長年地域を支えてきた運転手たちの仕事が失われかねない危機に直面したのです。その時、義父は地域に欠かせない物流を絶やすわけにはいかないという強い責任感を胸に、事業を引き継ぐことを決意し、「日豊」を立ち上げました。

「日豊」という社名には、日通から一文字をいただき、「世界につながるように豊かに」という願いが込められています。当社の敷地は当時の駅舎のあった場所で、今もその歴史を物語るかのように線路の名残が静かに息づいています。

 

昭和48年4月には「日豊運輸株式会社」を設立し、倉庫業や塵芥収集業務、選果業務など、事業を拡大しながら、常に地域の皆様の暮らしを支えることを使命としてまいりました。農産物の集荷や肥料の配送といった日々の業務から、生活に不可欠な物流を担い、この長沼の地に深く根差してきたのです。日豊運輸の歴史は、まさに地域と共に歩み、地域の発展に貢献してきました。

苦難を乗り越え、社員と地域に尽くした先代たちの情熱

創業者の志を受け継ぎ2代目社長、義母の中井俊子を経て、私の夫である中井裕司が3代目社長に就任しました。夫は大学2年生の時に父(創業者)が急逝し、19歳という若さで突然専務という重責を担うことになり、計り知れない苦労を経験したと聞いています。若くして会社を背負う重責を感じ、誰よりも真面目に、負けず嫌いな性格で仕事に打ち込む姿は私の目にしっかりと焼き付いています。
 当社の経営理念は、そうした創業者や先代たちが、長年にわたって現場で流してきた汗や人に対する想いが結晶化した言葉だと思っています。

夫が会社経営で最も苦悩した時期は、平成19年(2007年)頃に主要な取引先であった会社の倒産があった時でした。会社を大きく成長させてくれたこともあり縁を切れず、多額の損失を抱えることになりました。当時39歳頃だった夫は、会社を畳むべきか全従業員に相談し、従業員から「辞めないでほしい」という切実な声を受けました。そこで存続のためにできることをやると決断し、人員整理ほか、役員や従業員の給料をカットし、自らも給料から会社に貸し付けることで、この未曾有の危機を乗り越えたのです。夫は「会社と社会と従業員のために、本当に人のために尽くした人」でした。社員一人ひとりへの深い愛情と、地域との繋がりを何よりも大切にしていました。

東日本大震災の際には、無償でトラックを出して物資を運び、私と長男も一緒に荷物を積み込んだことを、今でも多くの地域の方々が感謝の念を持って語ってくださいます。夫のそのような奉仕の精神が、今の社員たちが先代を慕い、長きにわたって日豊運輸を支え続けてくれている礎なのだと感じます。

未来へ託す思い、受け継がれる絆

3代目社長で夫である裕司は、あるとき大病を患い一命を取り留めたものの、回復ままならない状態でも、地域のため、人のためと責務を全うし続けました。

夫の死後、会社の舵取りをどうするか悩みました。私たち創業家の想いを深く汲み取り、急遽社長職を引き受けてくださった前社長の多田良一氏には、家族一同、心より感謝しております。

新たに5代目として、日豊運輸の社長を務める飛谷博秀氏もまた、先代たちの想いを大切に受け継ぎ、会社を力強く支えてくださっています。日豊運輸は創業以来、長沼町のインフラとして、日用品や食料品の安定供給、建設資材の搬入、産業廃棄物収集運搬、そして災害時の物資輸送など、多岐にわたる社会貢献を続け、地域の皆様の生活に不可欠な存在であり続けています。

地域の方々や従業員からは、夫や義理の父母が地域のために尽くしたことへの感謝の言葉が尽きません。今も「中井さんに拾ってもらった恩を返したいから定年までいる」と言ってくれる社員もいると聞き、先代たちが築き上げてきた絆の深さに胸が熱くなります。この日豊運輸が、これからも長沼を主体とし、近隣地域にも貢献し続け、地域に愛され、必要とされる企業であり続けることを心から願っています。